日曜日, 12月 22, 2024

福音

「さらに、兄弟たち、わたしはあなたたちに宣べ伝えた福音を宣言します。あなたたちもその福音を受け入れ、その中に立っています。もしあなたたちが、わたしがあなたたちに宣べ伝えたその言葉をしっかりと保つなら、あなたたちが信じていない限り、あなたたちはその福音によって救われます」 「無駄だ。私はまず、私も受け取ったこと、すなわちキリストが聖書に従って私たちの罪のために死なれ、葬られ、聖書に従って三日目によみがえられたことをあなたに伝えたからである。」 (コリント第一 15:1-4)

コリント第一 15:1-4 では、キリストが私たちの罪のために死んで葬られ、3日目に復活されたという福音が私たちに伝えられていることがわかります。 そうされたことで、神は私たちが神に対して負っている罪の代価を、ご自身で完全に支払われ、私たちを解放してくださいました。

不義

聖書はローマ人への手紙 3 章 10 節で、義人は誰もいないと教えています。 誰も「良い人」ではありません。 私たちは罪人であるため、どんなに「善い」行い(祈り、貧しい人たちへの寄付、断食、教会に行くなど)をしても、神の目に正しく映ることはありません。 実際、聖書は私たちの善行を不潔な衣と同等に扱っています(イザヤ64:6)。 エデンの園でのアダムとイブの不従順により、全人類は堕落し、今では罪を犯しています。 この罪は私たちを神から永遠に引き離すものです。

次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。」(ローマ 3:10)。

すべての人は罪を犯した

ローマ 3:23 には、「すべての人は罪を犯し、神の栄光を受けることができず、」と書かれています。 詩篇 51:5 はこの点を繰り返しています。「ご覧ください。私は咎のあるのものとして生まれ、罪あるものとして母は私を身もごりました。」 このため、私たち自身を救うためにできることは何もありません。 私たちがこれまで犯してきた罪、そしてこれから犯すであろう罪はすべて、神に対して犯されたものです(詩篇51:4)。

神は聖なる方

神は義(正しい)で聖なる方ですから、罪を罰しなければなりません。 このため、私たちは皆「死」の刑罰を与えられています(ローマ人への手紙 6:23)。 しかし、神は愛であるため、誰もが滅びることを望んでいません。 神はその愛によって、人類がキリストを通して神の怒りから逃れる方法をくださいました(ヨハネ 3:16-18、ヨハネ 14:6)。 人類に対する神の愛と罪に対する神の正しい裁きは、私たちの代わりにイエスに怒りを注いだ十字架上で交差し、キリストの犠牲を通して信じる者に神の義が渡されます(ローマ5:8)。

そしてイエスは彼らを外へを連れ出して、『先生た方。救われるためには、何をしなければなりませんか』と言われたので、彼らは『主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』と言った。(使徒16:30-31)

キリストによる救い

私たちを救うことができるのは、イエスの十字架の犠牲に信頼を置くことのみです。 神は人類に御子の流された血を通して永遠の命という贈り物を与えられていますが、この贈り物を拒んで罪の代価を自分たちで支払うか、すでにすべての代価をもれることなく支払ってくださった方に信頼を置いて受け入れるかは、私たちの選択です。(使徒 16:30-31、ローマ 6:23、エペソ 2:8-9)。

死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。」 (第一コリント 15:21-22)

もしあなたがイエスの十字架上での完了されたはたらきをまだ信じてないとしたら、ぜひ今日信じてください(第2コリント6:2)! 聖書は、私たちのいのちとは消えゆく霧ようなものであり、誰にとっても明日が保証されているわけではないことを明らかにしています(ヤコブの手紙 4:13-14)。 しかし、あなたが今日、自分の救いのためにキリストを信じる決意をしたのなら、あなたは神の家族の一員になったのです、ようこそ! キリストの犠牲を通して、私たちは励まされ、たとえ今日という日を乗り越えなくてはならなくても、永遠にキリストと共にいることができるという確信に安心させられます。 福音とは何かについてさらに質問がある、今日キリストを信じることを決意した、などがあれば、お気軽に [email protected] までメール、または私のソーシャル メディア プラットフォームのいずれかでご連絡ください。